FEATURE 05

平山ユージのSTONE RIDER CHRONICLE

[第2章]17歳、ヨセミテへ ――アメリカで意識したヨーロッパ

一人の山好き少年が“世界のヒラヤマ” になるまで

その半生を平山自身が辿る特別連載。クライミングと出会った第1章に続く今回は、1986年「聖地」初来訪の思い出を。

※本記事の内容は2017年3月発行『CLIMBERS #003』掲載当時のものです。
 
 
 86年5月、僕はヨセミテにいた。クライミングに出会って2年、始めた頃から意識していたクライマーの聖地。のちに世界的アルパインクライマーとなる山野井泰史さんとの米国遠征だった。山野井さんも当時は19歳。練習場にしていた常盤橋公園(東京)や城ヶ崎海岸(静岡)などで顔を合わせるうちに舞い込んだ話だ。その資金稼ぎでアルバイトに励んでいた自分は、“今、行くしかない”その一心で、通っていた高専を休学、同行させてもらったのである。
 
 見るもの全部が目新しい世界。350mlのジュース缶だってそうだ。今じゃ考えられないが日本では250ml缶しか流通していなかった時代で、17歳の少年からすれば「でっけぇ!」、それを片手でクシャっと潰しちゃうアメリカ人「かっけぇ!」みたいな話である。そんな驚きの毎日でも一番の衝撃だったのが、フィヌーコ(・マルティネス)というスペイン人クライマーの登り。トントントンとピンポイントで指や足を決めていく。岩の上でまるでバレエをしているように見えた。
 
 日本のクライミング界は当時、アメリカのスタイルを受け入れ、それを世界の最高峰として追いかけていた。でも実際に現地へ来てみると、米国流を最も上手に表現していたのはヨーロッパの人たちだったのだ。もっと成長するには米国流だけじゃダメだ。こうあるべきという道が存在したとしても真っ直ぐだけじゃない、別の道もあるんだ。強烈な刺激を受けた自分がいた。
 
 一日も無駄にしたくないと渡米前にノートに記しておいたグレード5.11、5.12クラスに次々と挑み、40本ものルートに登ったヨセミテ滞在。その後コロラドに行き、ワイオミングに行き、オレゴンに行き、再びヨセミテへと各地を回った7カ月間のツアー。特に印象的だった岩場を挙げるなら、最後に臨んだジョシュア・ツリー(LA近郊)の「アシッド・クラック」だろうか。ヨセミテ再訪時に「コズミック・デブリ(5.13a/b)」や「フェニックス(5.13a)」を落として自信をつけていた僕にとっては、それまでのアメリカ的スタイル一辺倒の登りではない、ヨーロッパ的エッセンスも色濃いクライミングにトライした“最初の一歩”だった。
 
 心技体すべてでアメリカ人クライマーを上回る欧州勢との遭遇。何が来ても怖くないとヨセミテで悟った気がした自分がさらに一歩先、新たな領域へと踏み出す感覚を得たジョシュア・ツリーでの40日間。これは本場を体感しなければまずい――その頃にはもう、僕はヨーロッパに行くことを決心していた。
 
第3章へ続く~

CREDITS

取材・文 編集部 / 写真 森口鉄郎

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PROFILE

平山ユージ (ひらやま・ゆーじ)

10代で国内トップとなり渡仏、98年(日本人初)と00年にワールドカップ総合優勝を達成する。02年にクワンタム メカニックルート(13a)オンサイトに成功、08年にヨセミテ・ノーズルートスピードアッセント世界記録を樹立するなど、長年にわたり世界で活躍。10年に「Climb Park Base Camp」を設立した。

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