FEATURE 44

独占インタビュー

杉本怜 体も心もマッスル宣言

「まだまだ強いな」って言われ続けたい

クライミングはフィジカルとメンタルのバランスが取れていないと絶対に勝てない――こう語っていたのは日本代表を牽引する楢崎智亜だ。これほど体全体をフル稼働した繊細な動きを求められるとともに、毎回違う課題という不確定要素に対してブレない心を試されるスポーツもないだろう。そんなスポーツクライミングにおいて重要な、いかなる状況にも対応できるカラダとココロの作り方、在り方について、あらためて考えてみた節目の第10号。2018シーズンに怪我から復活を遂げたベテラン、杉本怜に話を聞いた。

※本記事の内容は2018年12月発行『CLIMBERS #010』掲載当時のものです(インタビュー収録日:2018年12月5日)。
 
 

2018年、5年ぶりのW杯優勝
でも、八王子での3位の方が嬉しかった

11月下旬には、トップ選手だけが招待される「Sportiva Legends Only」(スウェーデン・ストックホルム)というコンペに杉本選手も参加されていましたね。

「6人が参加して僕は4位でした。観客は200、300人くらいでBJC(ボルダリングジャパンカップ)などと比べるとこじんまりしていますが、その分、観客との距離が近くてライブ感のあるコンペです」

写真を見ると、みんな上半身裸でした(笑)。

「公式戦ではないのでユニフォームを着るルールもないし、1選手が1トライずつ挑戦する大会形式でもあって、ここが勝負どころという場面で気合いを入れる感じですかね。(イェルネイ・)クルーダーが最初に脱ぎ出して、最終的には僕も含め、みんな脱いでました(笑)」

2018年を振り返ると、まずはボルダリングW杯ですね。6月の第6戦ベイル大会(アメリカ)では5年ぶりの優勝。シーズンを通しても自己最高位の年間3位になりました。

「前半戦は不安定でした。第1〜3戦は8位、10位、12位。どれもスラブ課題に対応できず決勝に残れませんでした。この時点では年間表彰台はまったく見えていませんでしたが、第4戦の泰安大会で初めて決勝に残れて(4位)、続く八王子では3位で表彰台に上がることができました。振り返ってみると、ベイルでの優勝より八王子での3位の方が嬉しかったですね」

それはなぜ?

「これまでは決勝の第1、2課題でつまずくと、そこから立て直すことが苦手でした。でも八王子では3課題目で持ち直し、結果的に一人だけ完登できて、表彰台に繋がりました。そういった自分の苦手意識を克服できた意味でも、一番大きな収穫は八王子ですね。また、僕のキャリアを終えるまでの目標の一つに、ボルダリングW杯で年間表彰台に乗ることがありました。今年まさか果たせるとは思ってなかったのですが、達成できたことはとても嬉しいです」

一方で9月の世界選手権では、出場した3種目とも予選敗退という結果に終わりました。

「大会最初のリード予選で2本ともミスしてしまって……。ボルダーが本命だから切り替えようと思ったのですが、精神的に引きずってしまいました。ボルダーの予選も1、2課題は完登しましたが、その後が続かず。久しぶりにまったく展開についていけない試合になってしまいました」

 

 
 

復活を遂げた男の肉体、精神
楢崎・藤井の領域に「必ず行ってやる」

 
今号は『クライマーのカラダとココロ』をテーマに、杉本選手にもお話を伺いたいと思います。日本のトップ選手の中でも、「体の強さは怜君が一番」という声はよく耳にします。

「それで登っているようなものです。僕は楢崎(智亜)君みたいなランジやコーディネーションはできないし、緒方(良行)君や原田(海)君のような保持力もない。強みである体の芯の強さを鍛え続けて、それに経験をプラスして、バランス良く登っていくことが自分のスタイルだと思っています」

体のコアが強いと、具体的にどのようなムーブに生きるのですか?

「基本的には、体を固める動きが強くなります。大きなホールドを体全体で押さえつける動きもそうですし、引きつけて、止めて、登る。派手さはないけど、ベーシックな動きの質を追求していくことを大切にしています。楢崎君のムーブは真似できないかもしれませんが、僕のムーブは一般のクライマーの方も真似しやすいと思いますよ(笑)」

杉本選手はアテンプトを重ねながらも粘り強く完登していくイメージがあります。諦めない気持ちはどこから来るのでしょうか?

「コンペ中は割と冷静な方で、最終トライまでの秒数計算はしっかりやっています。理系出身だからというわけではないですが、細かいことを積み上げて考えていくのが好きで、1回やってダメだったものを考えて、良くしていって……。その繰り返しで最終的にアテンプトを重ねても登る切れることが多いのかもしれません」

その一方、完登後には感情を爆発させているイメージもあります。

「毎回叫んでるわけじゃないですけどね。なんだろう……単純に気持ちいいからですね。無駄に終了点に長くいたりしますから(笑)」

完登した人の特権ですよね。

「壁に取り付いていると時間が長く感じます。トップを取って『うわーっ!』とやってる時って、自分では10秒くらいかなと思ってるんですけど、あとで映像を見返してみると3、4秒くらいだったり(笑)」

 

 
杉本選手がコンペに向けて意識しているメンタルの整え方を教えてください。

「試合に向けて1週間、1カ月かけてメンタルを作る選手もいますが、それは僕の性に合わない。コンペが始まってしまえば、自動的にスイッチは入るので、逆に前日までは意識し過ぎないことを大切にしています。あと、2年ほど前からJISS(国立スポーツ科学センター)のメンタルトレーナーのサポートを受けるようになりました。トレーナーと会話することで気が楽になったり、反省点が具体的になって整理されるようになりました」

オフはどんなふうに過ごして気持ちを切り替えているのですか?

「仲のいい友達と旅行に行ったり、先日は浅草に瓦割りをしに行きました。これが趣味ってものはないんですけど、面白そう!と思ったことに何でもチャレンジするのが好きですね。だいたい1回しかやりませんけど(笑)」

2016年には肩の手術をされました。クライマーとしては大きな決断だったと思いますが、当時の心境を教えてください。

「2014年のW杯第2戦で左肩を負傷して、その後の2年間は騙し騙し競技を続けていましたが、いつか大きな怪我に繋がる不安は感じていました。JISSでメディカルチェックを受けるようになってから、肩の怪我の治療で有名な船橋整形外科の菅谷先生を紹介いただいて手術を勧められました」

手術に踏み切ったきっかけは?

「当初は2016年シーズンが終わってからの予定でしたが、第2戦の加須大会で予選落ちをして、それが凄いショックでした。その日のうちに菅谷先生に連絡を取って、手術をすることを決めました」

どんな手術だったのですか?

「僕が抱えていた故障は亜脱臼と言って、完全に脱臼するわけではないですが、ちょっとズレて戻るということを繰り返していました。肩には骨頭という先端部分とそれを包み込んでいる関節唇という受け皿があって、僕の場合はその関節唇が一部損傷していたので、それを縫い合わせて再建する手術を行いました」

 

 
2016年というと、東京五輪での追加競技採用が決定し、楢崎智亜選手と藤井快選手がW杯年間王者を争い、スポーツクライミングが世間から大きく注目された年でした。ちょうどその時に第一線から去る格好になりました。

「悔しい思いはもちろんありました。けれど、あの年に2人がこれまで日本人選手が行けなかった領域を一気に切り拓いてくれた。僕も必ず行ってやる、そう思いましたね。そこからは彼らを追いかけるだけです」

怪我や、その後のリハビリから得たものはありますか?

「本当にたくさんあります。一言で言えば、怪我をする前はトレーニングはクライミングしかしていませんでした。手術をしたことで、クライミングから完全に離れて、一から体を作り始めました」

それはどういったトレーニングを?

「以前は体の外側の大きい筋肉ばかりを使って登っていましたが、それだと関節への負荷がかかって怪我のリスクも高くなります。リハビリ中は体幹、インナーを鍛えるトレーニングに多く取り組みました。あとは下半身の強化ですね。JISSのアスレティックトレーナーや病院のリハビリ室の担当の方など、いろいろな専門家の方のアドバイスを取り入れるようにしました。これまで我流だったトレーニングに厚みが出たと感じています」

それらがなかったら今年のW杯年間3位はなかった?

「なかったですね。今まで通り10位前後をうろうろ、あるいはもっと下がっていたかもしれません」

 
 

東京2020はリアルな目標
自分にもチャンスがあるんだと信じて

 
少し時間を巻き戻して、杉本選手がクライミングを始めたきっかけを教えてください。

「小学校3年生の時、地元の北海道・札幌市にある『北海きたえーる』という道立の体育館にクライミングウォールができて、もともと登山好きだった父が新聞記事で見つけて一緒に行きました。そこで親子でドハマリした感じです」

先ほど理系と言われていましたが、早稲田大学への進学で東京に出てきたのですね。

「先進理工学部、応用物理学科というところを卒業しました」

すごく難しそうですけど、どんな研究をしていたのですか?
「光学の研究室で画像処理の研究をしていました。卒論はピントが合う範囲をどこまで深めることができるかというテーマで、顕微鏡や内視鏡カメラへの応用が期待される技術です」

大学時代はどのような競技生活を?

「進学後もW杯に参戦していましたが、あまり成績は上がらなかったです。理工学部は実験が多くて、半年で2回欠席すると単位がもらえないものがあったり、勉強の合間を縫って競技を続けている感じでした。でも大学2年から3年に上がる時に、W杯に専念したくて半年だけ休学したんです。その時は表彰台にこそ届きませんでしたが、決勝には何度か残れて自己最高の年間7位に入ることができました。そして翌年、2013年のミュンヘン大会で初優勝を達成できて。卒業後は就職するか、大学院への進学を考えていましたけど、ミュンヘンでの優勝をきっかけにフリークライマーとして生きていくことを考えるようになりました。幸いにもそれを応援してくれる方々がいたことは大きかったですね。両親には大反対されましたが」

今ではお父さんも認めてくれている?

「どうですかね(笑)。恩返しはこれからですけど、とりあえず自立はできたと思います」

 

 
若い選手が増えた今の日本代表チームをどう見ていますか?

「当初、コンバインド(3種目複合)競技は異質なものでしたが、みんなで切磋琢磨しているうちに、『コンバインドも楽しいよね』という雰囲気になっています。ただオリンピック出場枠は本当に狭き門なので、仲間でありながらライバル。いい意味でバチバチしていますよ」

杉本選手は第3期オリンピック強化指定選手に選出されています。東京五輪をどう位置づけていますか?

「怪我で一線を離れてからかなり置いていかれた感覚はありましたが、ようやくみんなの背中が見えてきた感じです。リアルな目標として意識できるようになってきました。来年、八王子で行われる世界選手権(8月)で出場選手がほぼ決まると思いますけど、自分にもチャンスがあるんだと信じて向かっていきます」

オリンピックに向けてクライミング界は盛り上がっている一方で、2020年以降に危機感を感じている人もいます。選手の立場から杉本選手はどう考えますか?

「もし2020年以降に盛り下がって、前の環境に戻ったとしても、僕はどうってことないと思っています。僕自身は2011年からW杯に出場して、当初は飛行機やホテルを自分で手配していました。今でこそいろいろなサポートをいただいていますが、雑草魂というのか、そういう苦労してきた時代があったことを忘れてはいけないと考えています。もちろん、そうならないように僕は最大限の努力をしますし、オリンピックとともにブームが去ったとしても、本当にクライミングが好きな人は変わらず応援をしてくれるのではないでしょうか」

来シーズンの目標を教えてください。

「八王子の世界選手権ですね。世界選手権でメダルを獲ることも、キャリアの中で目標にしている一つです。ボルダリング単種目とコンバインドでメダルを狙っていきます」

今年で27歳。競技クライマーとしてはベテランの領域に入ってきました。

「若手選手もどんどん出てきていますけど、『杉本怜、まだいるのかよ』『なんだよ、まだまだ強いな』って言われ続けたいですね。具体的な年齢まではわかりませんが、30歳を過ぎてもまだまだ突っ走っていきたいです」

 

CREDITS

インタビュー・文 編集部 / 写真 永峰拓也 / 撮影協力 Fish and Bird 二子玉川店

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PROFILE

杉本怜 (すぎもと・れい)

1991年11月13日、北海道生まれ。小学3年生でクライミングを始め、高校時代からボルダリングW杯に参戦。13年のミュンヘン大会で初優勝を果たし、15年にはBJCを制した。16年5月に左肩を手術してシーズン後半を棒に振ったが、翌年のW杯第6戦で2位に入ると、18年は第4戦で4位、八王子開催の第5戦で3位、そして第6戦で5年ぶりの戴冠。年間ランキングで初の表彰台となる3位につけた。

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