FEATURE 41

平山ユージのSTONE RIDER CHRONICLE

[第7章]再びビッグウォールへ。6年越しの“最高傑作”

こんな無茶なこと、もうできないかもな…

一人の山好き少年が“世界のヒラヤマ”になるまで――。平山自身が半生を辿る連載7回目は、W杯優勝を経た30代、クライマー人生の集大成となる挑戦を振り返る。

※本記事の内容は2018年9月発行『CLIMBERS #009』掲載当時のものです。
 
 
 00年代、僕の視線は再びビッグウォールへと向いていく。1998年、2000年とW杯年間王者に立ったコンペの世界には、2001年の世界選手権で一区切りを付けようと考えていた。目標の優勝は、怪我の影響もあって果たせなかったけれど。その間もずっと温めていた思い。1997年9月の「サラテ」オンサイト・トライ(第5章)直後から見据えていたターゲット。それが、6年後に実現する「エルニーニョ」へのチャレンジだ。
 
 その原動力はロマンと言うべきか。1000m級の壁を一度も落ちずに登り切る。サラテで叶わなかった夢にもう一度、踏み出したい。その挑戦により、持てるクライミングの能力をもう一段階、引き上げたい。30代中盤に差しかかり、心技体すべてを充実させることの難しさを実感していた自分。今ここで、クライマーとしての“最高傑作”を作りたかった。
 
 前々年からアメリカツアーを繰り返し、迎えた2003年10月。ヨセミテの大岩壁、エル・キャピタンの中でもサラテ以上の難度と言われていたルートがエルニーニョだ。これから1000mを一撃する――そう心に決め、壁に取り付く瞬間の緊張感は今でも覚えている。初日、スタートは太陽が陰る夕方。その2、3時間、最初の数ピッチが最も難しい「核心」と目されていた。第一の山場となる3ピッチ目を1時間以上かけてオンサイトすると、すでに夕闇が迫る中で読みにくさを増すホールドを前にその日はトライを中断。オンサイトに懸ける意欲は並々ならぬものだった。好条件を探りながら臨んだ2日目。だが、どうしても見えないポイントがある。抜けたとしてその先どうする? わからない状態のまま、行きつ戻りつし、厳しい体勢に追い込まれ、フォール。あっけない幕切れだった。
 
 それでも、なぜかサラテの時ほどの落胆はなかった。もちろん悔しかったけれど、それをバネに“とにかく上へ”と切り替える。そのピッチをレッドポイントし、次のピッチはすぐさまオンサイト。トライ3日目も宿泊ポイントまで一気に登ると、その後もう一度フォールしてしまったが、ついに4日目、全身全霊を注いで頂上に辿り着いた。これまでやってきた登りの要素をかき集めたようなクライミングで、能力的には最大の成果だ。登れたこと、それに挑戦できたこと、想像できたことに喜びが込み上げる。緊張から解放され、目に入るもの全部が綺麗に見えた。こんな無茶なこと、もうできないかもな……。そう思いながらも、不思議とクライミングをもっともっとやりたい衝動に駆られていた。そして、今後は“自分にしかできないこと”で足跡を残していきたい、そう感じていた。
 
 以降、僕は国内外の岩場で高難度ルートの攻略・開拓に照準を定めていく。2004年にはスペインの「ホワイトゾンビ」を世界初のオンサイト。39歳となった2008年には友人のハンス・フローリン(アメリカ)に誘われ、再びヨセミテで挑んだ「ノーズ」のスピードアッセントで世界記録を更新する。エルニーニョを経てなお、40歳を目前にしても、引き込まれるクライミングの魅力。次はどんな楽しみと出会えるのかな。
 
~第8章へ続く~

CREDITS

取材・文 編集部 / 写真 永峰拓也

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PROFILE

平山ユージ (ひらやま・ゆーじ)

10代で国内トップとなり渡仏、98年(日本人初)と00年にワールドカップ総合優勝を達成する。02年にクワンタム メカニックルート(13a)オンサイトに成功、08年にヨセミテ・ノーズルートスピードアッセント世界記録を樹立するなど、長年にわたり世界で活躍。10年に「Climb Park Base Camp」を設立した。

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