FEATURE 40

平山ユージのSTONE RIDER CHRONICLE

[第6章]もう一つの頂へ。念願のワールドカップ年間優勝

同時に実感したのは、『こんなに多くの人に支えられていたんだ』という思い

一人の山好き少年が“世界のヒラヤマ”になるまで――。平山自身が半生を辿る特別連載の6回目は、岩場での快挙に続く、コンペシーンでの飛躍。

※本記事の内容は2018年6月発行『CLIMBERS #008』掲載当時のものです。
 
 
 1997年9月、クライミング人生すべてを懸けて臨んだ「サラテ」(アメリカ・ヨセミテ)のトライでレッドポイントを達成した僕は、心の壁を突き破ったような感覚だった。今までにない集中力を発揮することで、自分の限界が押し上げられていくイメージ。それは翌98年、すぐさま結果に表れる。日本人、さらにはアジア人クライマーとして初の快挙となった、ワールドカップ年間優勝(リード種目)である。
 
 開幕前は正直、1戦でも勝てれば、くらいのノリだった。90年代前半から“同志”フランソワ・ルグラン(第4章参照)ら欧米勢に行く手を阻まれ、最高成績は年間3位。前年のW杯では最終戦で表彰台を経験していたが、まだ人工のルートに対して力が絡み合っていない印象。それが初戦から、自分でも“これは凄いぞ”という手ごたえがあったのだ。
 
 8月の日本選手権で優勝した翌月、クールマイユール(イタリア)で挑んだ開幕戦。ここで2位に入ると、続くミラノ(イタリア)での第2戦で優勝を果たす。“これでいけるぞ”と波に乗ったシーズンの決着は、11月の最終戦クラーニ(スロベニア)。当時トップ選手の一人だったクリスティアン・ブレンナ(イタリア)に競り勝ってのシリーズ2勝目により、掴み取った王座だった。サラテでの成長がコンペシーンで結実し、89年のプロクライマー宣言時に掲げた目標が叶った瞬間だ。
 
 振り返ると、小山田大くんというライバルの出現が大きかったと思う。国内に立場を脅かす存在がいたこと、6歳年下の彼と切磋琢磨できたことは、どこかであぐらをかいていただろう僕を引き締めてくれた。初の戴冠が日本にもたらしたインパクトは、帰国した際の反響とともに記憶している。現在では海を越え「世界」と戦うスポーツ選手は大勢いるけれど、当時はまだ野球界の野茂英雄さんが目立つ程度。W杯終盤から『情熱大陸』のクルーが密着してくれたり、知り合いの新聞記者は今か今かと待っていてくれたり……そう、優勝の予兆はあったのだ。でもそれまでは、あと一歩のところで僕自身が重圧に勝てなかったのである。
 
 そのブレイクスルーと同時に実感したのは、“こんなに多くの人に支えられていたんだ”という思いだった。祝福し、誇りに感じ、サポートしてくれる人々が、自分本位の人間だった僕を変えてくれた。そしてもちろん、家族の存在も。プロとして足元も固まっていない97年に結婚し、同年に長男が、99年には長女が誕生した。海外を飛び回っていた僕だって、責任感が増すのは当然だ。お父さんしっかりしなきゃ、って。
 
 初優勝から2年後の2000年、僕は2度目のW杯チャンピオンに輝く。あれよあれよと駆け上がった前回とは違い、狙いに行って獲ったタイトル。達成感は確かにあった。しかしそれでもまだ、“登り詰めた”という喜びはなかった。その前年に2位で逃していた、世界選手権の頂点に立ちたい。再びビッグウォールに挑戦し、あの充実感を味わいたい。30代を迎えた僕の眼前には、次なるターゲットが待っていた。
 
~第7章へ続く~

CREDITS

取材・文 編集部 / 写真 永峰拓也

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PROFILE

平山ユージ (ひらやま・ゆーじ)

10代で国内トップとなり渡仏、98年(日本人初)と00年にワールドカップ総合優勝を達成する。02年にクワンタム メカニックルート(13a)オンサイトに成功、08年にヨセミテ・ノーズルートスピードアッセント世界記録を樹立するなど、長年にわたり世界で活躍。10年に「Climb Park Base Camp」を設立した。

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