FEATURE 02

平山ユージのSTONE RIDER CHRONICLE

[第1章]15歳の初クライミング――そして人生が変わる

出会いは突然だった。でも、必然だったんだろうな。

一人の山好き少年が“世界のヒラヤマ”になるまで。その半生を平山ユージ自身が振り返る特別連載がスタート。第1章は、クライマーとしての第一歩を踏んだ30年前にタイムトリップしよう。

※本記事の内容は2016年12月発行『CLIMBERS #002』掲載当時のものです。
 
 
 出会いは突然だった。でも、必然だったんだろうな。平山ユージという人間の体と頭が、それに一瞬で共鳴したような感覚。15歳の夏、初めてフリークライミングというものを体験した日から、僕はその世界に魅せられた。学校に行って、練習に没頭して、アルバイトして、ご飯を食べて寝る……そんな“週7クライミング”ライフの始まりだ。
 
 今回、こうして自分の人生を振り返る機会を与えてもらった。第1回は、クライミングの魅力を全身で感じ、取り憑かれたように壁に挑んだ少年時代から綴っていきたい。

   

君、やりたそうだね。檜谷さんの一声

 
 きっかけは、登山に対する欲求だった。中1から始めて、すごく単純に、もっと高い山に登りたい、エベレストに登りたいと夢が広がっていく。山登りを極めるには、時に岩場だって雪山だって打破しなければならない。登攀の方法や技術をひと通り学びたいと考えていたのが当時の自分だ。
 
 ただ、どんなに熱い思いがあっても、入り口がなかった時代である。「挑戦させてください!」。中学生の僕はいくつもの山岳会に連絡してみたけれど、どこでも断られる、叱られる……。中学卒業後に進んだ航空高専で入部したワンダーフォーゲル部も、活動の中心は“山歩き”。満たされぬ気持ちのまま、ひそかに友達と壁や岩に登ってみたこともあった。「いつか本物の岩登りしたいね」とか言って。
 
 そんな時、人生を変える出来事が偶然にも訪れる。1984年、高1の夏休み。舞台は東京・池袋にある登山用品店「秀山荘」だ。
 
 毎年、夏と冬の終わりに開催される安売り市。たまたま友達が約束の時間に遅れ、僕はクライミング用品の前で待っていた。“カラビナ?かっけー!”。その見た目からして、クライミングの道具には惹かれるものがあった。“こんなのを使って、いつか自分も山に登ってみたいな”。
 
 すると「君、クライミングがやりたそうだね」という声がした。話かけてくれたのは、濃い髭をたくわえた店員さん。この方こそ、当時トップクライマーで日本クライミング界の第一人者である檜谷清(ひのたにきよし)さんだった。
 
 「やりたいです」と、即座には答えられなかったのを覚えている。ワンゲル部では岩登り禁止だったし、お金もかかるんだろうし、両親がどう考えるかという心配もあって。けれど、どの山岳会も自分を受け入れてくれなかった時に、檜谷さんは、もうその場で講習会へと誘ってくれたのだ。それが何よりも嬉しかった。

   

これは一生飽きない。日和田山の衝撃

 
 で、会って1週間後には埼玉県・奥武蔵の日和田山へ。正直、クライミングのことは何も知らなかった。声をかけられた日にクライミングシューズとチョークバッグは買ったけれど、「これで家から歩いて行くんじゃ足が痛いっすね」とか言っていたほど。金具を打ち付けたり道具を使ったりして登るものだと思っていて、現地に行ってみて“岩をそのまま素手で行くのか!?”と驚かされたものだ。
 
 そうやって実際に自分の体、手と足だけで登ることを経験したユージ15歳……。まさに衝撃、そして感激だった。このスポーツの面白さを一瞬で理解した。5~10mほどの小さな岩場だったが、それぞれの岩やルートによって登り方が全然違う。こんなにちっちゃな岩でこれだけ楽しめるってことは、世界中の岩でやり続けたら一生飽きないだろうな――。たった1日で、いきなり「世界」を想像しちゃうなんて、15歳って素敵でしょう?
 
 初日でそんな感覚にまで至ったのには、中2まで取り組んでいた陸上競技の反動もあったのだろう。いつものメンバーといつものトラック。常に変わらぬ風景、常に求められるタイム。そこに僕は辛さを感じてしまっていた。
 
 しかし、クライミングは違った。マイペースで、コツコツ歩みを進めていく楽しさ。同じ岩でも毎回、感覚が変わった。檜谷さんをはじめとして、海外の岩場や山々の話をしてくれる先輩方の存在も大きかったと思う。夢がどんどん膨らんでいった。
 
 初のクライミング体験後は(正確に言うと秀山荘でシューズを買った翌日からは)、練習漬けの日々に突入する。学校→クライミング→アルバイト→睡眠というサイクルだ。ちなみにもっと正確に言えば、講習会後の帰りの電車の中からトレーニングはスタートしている。
 
 日和田山では1本だけ、何度トライしても突破できないルートがあった。悔しくて、檜谷さんにアドバイスを求めた僕。「どこが疲れた?」と聞かれたので「前腕」と答えると、「じゃあ懸垂で腕や指を鍛えたらいい」と檜谷さん。そうなればもう、電車内の鉄枠を使って懸垂開始だ(もちろん、他のお客さんには迷惑をかけないように。おおらかな時代でした)。自宅に帰れば、すぐにぶら下がれる場所を探し、父親に承諾を得て、懸垂用の棒を打ち付ける。そこから毎日、寝る前に200回が習慣になった。

   

週7石垣で、休養5カ月で、僕は学んだ

 
 そして、実践の“トレーニングジム”となったのは、常盤橋公園の石垣だ。東京・大手町にある皇居の外濠公園。現在ではクライミングが禁止されているが、当時は首都圏のクライマーにとって格好の練習場だった。僕は一番年下だったけれど、年輩や同世代のクライマーが数人いつも集っていた。
 
 練習は、自分でコントロールして難度を上げていく感じ。石垣の段に対し、足はスメアリングで、腕だけでぶら下がる登りを端から端まで行うのがルーティーンである。それを一段目、二段目、三段目……と一番上まで繰り返し、全部やると1時間半くらいのメニュー。もちろん、登りっぱなしだ。
 
 それを週7日。周りのクライマーも、熱心な子が、いやヤバい奴がいるなと思っていただろうな。基本的には誰とも会話せず黙々とやっていたから。それでも夕方からのアルバイト(日本橋でビル清掃だ)に向かうまでの時間は、みんなと話したり、クライマーが溜まっていた「アトム」という喫茶店に行ったり。その後の財産となる、いい思い出と出会いがたくさんあった。
 
 常盤橋公園での特訓は、冬場に肘を痛めてしまうまで4~5カ月は続いた。当時はトレーニングメソッドのようなものも知らなかったし、休むことが良くないとさえ考えていた。1日休むと2日後退みたいな感覚で、それが怪我に繋がった部分もあったと思う。
 
 結局、治療期間は5カ月に及ぶ。けれど、その時間も決して無駄ではなかった。苦難を味わって「ストレッチが重要なのか」とか「疲れた後は休養しなきゃいけないんだ」と学習し、何よりも自分がどれだけクライミングを好きなのかを認識できたのである。
 
 高2の8月、医者から「再開OK」が出た後は、鬱憤を晴らすかのように国内の様々なルートへと挑んでいった。一方ではオーバーワークにならないよう、効率的な練習メニューを考えたり自らの体と向き合ったり、クライミングにより一層ストイックに没頭していく。翌年の春頃には、ほぼ日本中の難しい岩場を登り終えた状況になっていた。
 
 日本にいても、やることはもう限られてきたのかもしれないな。そう思う自分がいた。いよいよ僕の脳裏にも、クライマーにとっての聖地、ヨセミテの存在が迫っていた。
 
第2章へ続く~

CREDITS

取材・文 編集部 / 写真 森口鉄郎

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PROFILE

平山ユージ (ひらやま・ゆーじ)

10代で国内トップとなり渡仏、98年(日本人初)と00年にワールドカップ総合優勝を達成する。02年にクワンタム メカニックルート(13a)オンサイトに成功、08年にヨセミテ・ノーズルートスピードアッセント世界記録を樹立するなど、長年にわたり世界で活躍。10年に「Climb Park Base Camp」を設立した。

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