FEATURE 127
独占インタビュー
野口啓代 奇跡だったオリンピック
長きにわたる戦いを終えた野口啓代の表情は、どこかやわらかさで満ちていた。シニアの日本代表デビューから16年。偉大なるクライマーは1つの集大成となった東京五輪の檜舞台で、いったい何を考えていたのか。彼女が挑んだ競技人生最後の“登り”を追体験する。
※本記事の内容は2021年9月発行『CLIMBERS #021』掲載当時のものです(インタビュー収録日:2021年9月13日)。
「ホッとした」予選4位通過
二晩眠れなかった競技前
長い競技生活、本当にお疲れ様でした。東京五輪から1カ月が経った今の率直な気持ちから教えてください。
「もっと時間が経っている感じがして、もう遠い昔のような気がしています(笑)」
五輪期間中のお話をいろいろと伺いたいのですが、まず開会式はどのような心境で迎えましたか?
「当初は開会式に出る予定で、赤と白のウェアも届いていたのですが、制限が厳しくなり参加できなくなってしまったので茨城の実家からテレビで観ていました。自分もあの場にいて、競技会場にはお客さんもたくさんいるという五輪をずっと思い描いていたので、寂しさもあり、想像とは違うな、という感じでした」
スポーツクライミングは大会日程の後半に組まれていましたが、前半から日本勢のメダルラッシュが続きました。
「自国開催だとこんなにも強いのかと思いましたし、スケートボードやサーフィンなど新競技でも活躍していたのでプレッシャーはありましたけど、クライミングも続きたい、負けたくないという想いでした」
予選当日まではどのように過ごしていましたか?
「実家の壁や日本代表で貸し切ったクライミングジムでトレーニングしていました。競技の5日前から本番会場で事前練習できる機会があり、壁やスピードのホールドのフリクションを確認しました。選手村には競技の1週間前から入れたのですが、私たちは(感染対策方法の1つである)バブル方式が適用されたホテルに宿泊しました。選手村では食事を取ったり取材を受けたり、お土産を買ったりモニュメントで写真を撮ったりして、五輪を満喫していましたね」
そして8月4日の女子予選を迎えます。
「W杯とかでも自分の出番の前夜に緊張したりして寝られないことはあったんですけど、今回は3日にあった男子予選の前夜から全然寝付けなくて(笑)。『明日から競技がついに始まっちゃう』っていろいろと頭に浮かんで、ベッドには入りましたが気がついたら朝の5時、6時で2日間ほぼ寝ていない状態だったんです」
“二徹”しての予選だったと(笑)。
「そうしたら最初の種目のスピードが始まった17時過ぎにいきなり眠気が来てしまい、これはヤバいと思って一人で眠気と戦っていました。ここで寝たら一生後悔するなと(笑)」
そのスピードでは8.23秒の自己新で9位発進となりました。
「五輪前の1カ月はコンスタントに8.0秒台が出せていて、最後に日本代表チームで行ったシミュレーションでは8.001秒だったんですよ。絶対に7秒台が出るなと思って臨んでいたので、少し残念でした」
続くボルダリングでは第3、第4課題を連続完登し計3完登で3位、最後のリードは高度27+で6位。印象に残っていることはありますか?
「ボルダリングですね。1課題目は登りやすい簡単な課題だったんですが、2課題目に終了点で3回落ちてしまったので第3、第4課題はかなり気合が入りました。特に4課題目の一撃は今シーズンのベストパフォーマンスだったと思います」
総合4位で上位8名による決勝に進出しました。
「決勝には確実に残らないといけないプレッシャーがあったので、ホッとした気持ちでした」
女子決勝の前日にあった男子決勝では、楢﨑智亜選手が4位に終わりメダルには届きませんでした。
「2年前の世界選手権や今シーズンの登り、トレーニングなどを見ていると、これだけ調子が良いと勝てないはずがないと感じるほどでしたし、気合も入っていたのを知っていたので、五輪って怖いなと思いました。(原田)海くんも予選落ちでしたし、本当に何が起こるかわからない、気が抜けないなと」
競技人生最後のトライ
メダルに届くとは思っていなかった
女子決勝の日はどのような気持ちでしたか?
「『五輪決勝の日』というより『競技生活で最後の日』という気持ちのほうが大きかったですね。スピードはあと3レースで、ボルダリングはあと3課題、リードは1本か、という感じで、どこか感慨深かったというか」
スピードは3・4位決定戦で野中生萌選手との日本人対決でした。
「最後のレースでまさか生萌と当たるなんて面白いなと思いましたね。裏では『スピード最後の1本が生萌とだよ』『え、うれしいね』みたいな話をしていました。五輪前のシミュレーションでも2人でずっとやっていたので、『なんか練習みたいだね』って」
スピード4位の後、ボルダリングは第1、第2課題いずれもゾーン止まり、第3課題はゾーンに届きませんでした。最も得意とするボルダリングでゼロ完登に終わったのは、悔いが残りましたか?
「そうですね。決勝はボルダリングに一番後悔が残っています。今回はすごく難しくて、完登したのはヤンヤ(・ガンブレット)のみ。彼女以外はゾーン数やゾーンへのアテンプト数勝負だったと思うんですよね。まず1課題目は登り切りたかったです」
3つの中で最も完登に近づいていたのがその緩傾斜課題でした。
「ゾーンを越えてから何度か落ちてしまって。あれが最初の勝負の分かれ目だと感じていたので、相当悔やまれます。2課題目は正直登れるイメージが湧かず、たぶん他の選手もそうだったと思いますがよくわからないけど進んでいくような内容でした。3課題目は得意に見えてゾーンまでは行けるかなと思っていたんですけど、塞がれているガストンを取りに行っても命中しなくて。前の選手がゾーンを取っていたのは何となくわかっていたので、少し焦りもあったかもしれません」
男女決勝とも、ボルダリングは難易度の高い課題が続きました。五輪に初採用されたスポーツクライミングを初観戦する方が多い中で、完登シーンが少ないことを寂しく感じたのですが、競技者の立場からはどう捉えていますか?
「決勝は3つしか課題がないので、そこでリザルトを付けることってすごく難しいと思います。でも初めて見る方に選手が喜んでいる姿や、『こうやって登るんだ』というのがもっと伝わると良かったなとは思います」
ボルダリングは4位、総合6位でこの第2種目を終えましたが、どのような心境でしたか?
「『あ、もう終わったな』と思いましたね。スピード4位は想定内で、ボルダリングでは1位、本当に悪くても2位にはなりたかったんですけどまさか1課題も登れないとは……という感じで。『あそこでこうしてれば良かった』『何がいけなかったのかな?』ってめちゃめちゃ考えました。決勝でこんなにダメだとは思わなかったので、最初は『リード登りたくない』『もう帰りたい』みたいな感じで(笑)」
そこからどのようにしてリードに挑む気持ちを作っていきましたか?
「ここで諦めたり、絶望的になって最後のリードを無駄にしたりしたらそっちのほうが後悔すると思ったので、思い切り登ろうと決めました。これが競技生活でみなさんにお見せする最後の1本だから、とにかく一手でも多く登って、やり切った感じで終わりたいなって。メダルのことは考えていなかったですね。というかもう、届くと思っていませんでした」
激闘の末のメダル
五輪に参加できたことは奇跡
女子リード課題を担当したルートセッターの岡野寛さんは、野口選手にしては珍しく一手一手声が出ていたと話していました。
「ボルダリングでメンタル的にやられていたこともあり、また疲労や暑さなどいろいろなことがあり限界に近かったので、こうしようと何かを考えるよりは、次の一手を止めよう、次の一手を止めようという感じで、目の前の一手しか考えていなかったです。出し切るトライはできたのかなと思います」
順位が確定した瞬間はどのような気持ちになりましたか?
「隣にいた生萌も最後のリードでうまくいかず『メダルは厳しいと思う』と言っていて、私もボルダリングでダメだったから『やっちゃったね』って2人して凹んでいたら、最後のセオ(ソ・チェヒョン)が登り始める前にスタッフの方が勘違いして、ヤンヤも含めた私たち3人に『メダリストはあなたたちで決まったよ』って言ったんですよ。私たちはセオが何位になると最終的に何位になるかわからなかったし、諦めてもいたから『え~! 何でなんで?』となって。そしたら、やっぱりセオが1位になったら私は4位になる的なことを言われたんです(笑)。さっきまで泣いて喜んでいたのに(笑)。生萌に『セオが1位だったら私メダルじゃないかも。勘違いだったみたい』って話したら『啓代ちゃんは絶対にメダル取れるから。日本中のみんなが応援してるから大丈夫だよ』って。そう言われたことがすごく印象的で今でも覚えています」
結果的にソは1位になれず、野口選手の銅メダルが決まりました。
「信じられないというか、びっくりしました。本当に絶望的だと思っていたので」
優勝したガンブレット選手について、一言いただけますか?
「今回の五輪で一番優勝が難しかったのって、男女とも優勝候補の選手だったと思うんですよね。ヤンヤは金メダル最有力だとずっと言われ続けてきて、プレッシャーも想像を絶するくらい大きかったと思います。男子では波乱があったりして、金メダル候補であっても優勝するのは本当に難しい。もちろん強いのは知っているんですけど、実力だけじゃなく、メンタルや目標達成するための能力も彼女はすごいと感じました」
2位には野中選手が入り、日本勢2人で表彰台に上がりました。
「代表選考の問題があって、それもモヤっとするような決まり方をして、本人もずっと苦しかったでしょうし、今シーズンも調子がいい時にケガをしてしまったり、多くの試練がある中での銀メダルだったと思います。最後は気持ちの強さが前面に出ていた気がします。2人で表彰台に上がれて本当にうれしかったです」
コロナ禍による1年の延期を経て、ほとんどの会場が無観客にはなりましたが、五輪は開催され無事終了しました。
「『開催は難しいんじゃないか』と何度も思いました。たくさんの医療従事者、ボランティア、五輪関係者の方々の尽力がなければ開催できなかったはずです。自分の年齢面や、引退を考えるタイミングで五輪があったこと、コロナ禍で開催できたこと。そのすべてを考えると、自分が五輪に参加できたことは本当に奇跡だと思っています。奇跡のような体験をさせてくれた方々には、感謝の言葉しかありません」
第二のクライミング人生へ
楽しさ、素晴らしさを広めたい
小学6年生で国内公式戦に初出場初優勝、16歳で迎えたシニア国際戦デビューの世界選手権でリード銅メダルを獲得、その後表彰台に上がり続けてきたこれまでの競技人生はいかがでしたか?
「あの課題を登りたかったとか、あと一手頑張れたとか、スピードはもっとタイムを縮められたとか、W杯で優勝しても年間優勝しても課題は見つかって改善したい気持ちになるし、だから自分はここまでやめずにやってこられたんだと思います。『足りないものを求め続けてきた』という感じ。自分が競技をしていない時のほうが思い出せないくらいで、終わりがあるんだなと思いました」
競技引退後についてはどう考えていますか?
「クライミングを普及する活動をしたいと考えています。やりたいことがたくさんあって、何をどのくらい、どこからやっていこうという感じで、具体的にどうするかはまだこれからですが」
その理由を教えていただけますか?
「私はやっぱりクライミングが大好きで、その楽しさ、素晴らしさをみんなに知ってほしいですし、そうすることでクライミングに恩返しがしたいんです。また日本代表やW杯のトップで活躍する選手たちってすごく魅力的だと思うので、彼らの良さを伝えられる存在になりたいとも思っています」
さっそく9月4日に行われたリードW杯クラーニ大会のテレビ中継では、初めてとは感じさせない喋りで解説者デビューを果たしました。
「一緒に戦ってきて知っている選手もいれば、ユース上がりでこの選手の良さがわからないというケースもあって、どうしたらきちんと一人ひとりの良さを解説できるのかな?とまだまだ勉強不足だと感じました。ただ昔からよく知るひぐっち(樋口純裕)の初優勝もあり、とても楽しく解説ができました」
ご自身のクライミングは今後も続けていきますか?
「はい。実家に大きな壁もありますし、もう少し涼しくなったらコロナ禍の状況次第ではありますが岩場のツアーにも行きたいですね」
競技引退にあたり、特に感謝を伝えたい人はいますか?
「今まで関わってくれた、応援してきてくれた人全員に伝えたいですが、でも一番は父親ですね。子どもの頃から家にプライベートウォールを建ててくれるなどサポートしてくれて、私は18歳で親元を離れたんですけど、なのにどんどん壁は進化していって、去年には3種目の壁がそろう『au CLIMBING WALL』が建ちました。当時からは想像もつかないくらい父の建築能力が上がっていることに驚きました(笑)。本当に必要なサポートをし続けてくれる親ってなかなかいないと思うので、一番は父に感謝しています」
お父さんにメダルをかけてあげたりしましたか?
「照れてましたね(笑)。2019年の世界選手権で五輪代表に決まった時は感動して泣いてたって聞きましたけど、五輪の時は特にそうはならなかったみたいです(笑)」
最後に、これまで応援してくれたファンへのメッセージをお願いします。
「たくさんの方々から『まだ競技をやってほしい』とか『競技する姿が見られなくなって寂しい』という言葉をかけていただきました。今後は競技する姿をお見せすることはできないと思いますが、これからもクライミングに対する情熱は変わらないですし、むしろこれだけ充実した競技生活を送ることができたので、クライミングをもっと盛り上げていきたいという想いが選手の時よりも強くなっています。これまでとは違ったやり方でまた頑張りたいと思っているので、これからも応援してもらえたらうれしいです」
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CREDITS
インタビュー・文 編集部 /
写真 永峰拓也
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PROFILE
野口啓代 (のぐち・あきよ)
1989年5月30日生まれ、茨城県出身。ボルダリングで日本人最多となるW杯年間優勝4回やジャパンカップ9連覇の記録を持ち、16年間も国際大会で表彰台に上がり続けた。世界中から惜しまれる中、集大成として臨んだ東京五輪で銅メダルを手にし、長年の競技人生に幕を閉じた。